文学に選ばれる
こんなポストを見かけました。
「芥川賞」で検索して、安堂ホセ氏への授賞に怒って「芥川賞なんてくだらない」みたいなことを投稿してる皆さん、安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。どうか、文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮なさっていて下さい。
— 豊崎由美@とんちゃん (@toyozakishatyou) January 16, 2025
あと批判する際は読んでから、ね……あ、読めないか。
何か騒ぎが起きてるみたいだなと思って調べてみると。
KADOKAWAが発行したトランスジェンダー本が界隈からひどく批判され、回収騒ぎとなりました。その時作家の安堂ホセさんが、本を読まずに批判。読む価値ないのは読まなくてもわかる的な態度を取りました。作家であればこういう言論統制のような問題に対しては敏感であってもいいのに、ポリコレ側に乗ったことで批判され、その結果、今回芥川賞を取ったところで、逆にこいつの本は読まなくても読む価値ないのがわかると、やり返されてしまいます。
このポストは、その安堂さんを擁護する中で投稿されたようです。
このアカウントの名前、見たことあるなと思ったら、以前TikTokのケンゴさんの本の紹介に噛み付いた書評家の人ですね。僕も記事にしています。
さて、安堂さんの下りについては特に何か書くつもりはないのですが、気になったのは「文学に選ばれる」という書き方です。
以前の騒動の時にも、この人の選民思想が行間からにじみ出てくるの気持ち悪いなと思ってたんですけれども、とうとう自分で言い切りましたよ。選ばれるんだってさ。そしてお前らは頭が悪いから読めないんだってさ。
でもこの言葉は本当に見事だと思います。文学にまつわるイメージを一言で言い表しているからです。それについてちょっと考えてみたいと思います。
元々ね、ずっと疑問だったんですよ。なんで学問じゃないのに「文学」というのか。小説について研究する学問で文学というならわかります。でも小説本体がなぜ文学と呼ばれてしまうんだろう。「学」ついているところに権威主義を感じて気持ち悪いのです。何で高尚っぽい顔してんの、こいつら。
ということで、いい機会だからと、ちょっと調べてみたところ。
「文学」という日本語は昔からあり、元々は書物による学芸全般を指す言葉だったのだそうです。なるほど、それなら言葉通り。
それが明治時代に西洋の文明が輸入されていく中、literatureの訳語として使われました。「審美的な芸術的側面を持つ文章」に当てはめられたのです。そういう西洋の作品や思想を輸入した時期に「いわゆる文学」として概念が固まっていったので、啓蒙的な側面ができたのだ、ということでしょうか。
そこからさかのぼって、昔の小説俳諧などが日本文学として定義されたわけですけれども、本来だったら、「文学」ではなく「文楽」と書いて「ぶんがく」と読んだ方がよかったんじゃないのかなと思います。雅楽や音楽と一緒で人を楽しませるものとして。そう思ったのですが、ただ「文楽」(ぶんらく)はすでに人形浄瑠璃を指す言葉として使われちゃってるんですよね。惜しい。
僕自身の書き手の信念として、読み物は高尚だとか通俗だとか流行り廃りだとか全部関係なくて、面白いかどうかがすべてだと思ってるんですよね。読む人の好みで、好きなストーリーやキャラクター、興味のあるテーマがあるだけ。そちらの方が民主主義、自由主義社会にふさわしいのではないか。
そう考えると、やはり権威主義の臭いを漂わせ、しかも選ばれると言っちゃうのは、自分の器の小ささを露呈していて恥ずかしいよな、というのが感想なのでした。権威を借りてマウント取るやつ、クソださい。
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