生成AI補足
この間、HON-CF2024を見て、生成AIについての記事を書きました。
その中で僕は、生成AIは原理としては統計的に学習しているので、精度が上がれば上がるほどそつなくなっていき、創作に必要なオリジナリティが出せないのではないかと書きました。今日はこれについて、もうちょっと補足。
もうちょっと詳しく書こうと思ったきっかけは、通勤途中によく見かけている広告です。そのそばを通る時、ああ、これが具体例だなと思ったのです。
それは昔の少女漫画風の広告で、パロディーになっているやつです。『エースをねらえ!』風のやつ。よくありますよね、縦ロールの、まつげバチバチのお嬢様が出てくるの。これ以外にも例えば『巨人の星』のパロディなんかもありますよね。
あれがパロディとして成立するのは、過去にものすごい流行ったからです。そしてそれが時代が流れて、本来の意味が風化して、面白いものとして扱われてしまっている。
でもあれがリアルタイムに流行っていた時期には、あの絵はとても素敵なものでした。ああいう絵が表しているキラキラ感とか熱さに、みんな心を動かされていたのです。
このように「流行り」というものは定まったものではなく、環境条件に影響される、極めて感覚的なものだというのがポイントです。あの昔の少女漫画に特徴的な、まつげバチバチで瞳の中に星が大量にキラキラと描かれているあの画風は、それ以前の文脈があって、それをより強化して強化してたどり着いたもの。それがある程度行くと、一転別方向に進むようになって、絵柄の流行りが変わる。
この別方向に進むということがAIでは難しいんじゃないかな、というのが先の記事に書いた意見なのです。以前のケースからの学習からは出てこないものだからです。それ以前のものから変えて流行から外そうという意思がいる。それはAI自体にはないものです。
さて、そうした時。結局AIは道具なので、使っている人には意思があります。その人の使い方次第では違うものができる。
ただですね、これも以前書いたのですが、そもそもAIを使って創作しようと思う人はどういう人なのか。
創作には苦しみが伴います。いろいろな試行錯誤の果てに、ようやくたどり着く境地がある。ところがそうやって一生懸命がんばって書いても、全然評価してもらえなかったり、さらにちょっと時間が経って落ち着いてから自分で見たら「やばい。全然下手だ」と自覚してしまったりしてがっかりする、というようなことが起きます。
それでも筆を折らない人は、一生懸命がんばってうまくできたと思った時のささやかな喜びに囚われた人です。後で下手だと自覚して肩を落とすことになったとしても、出来上がった時の喜びが何よりも代えがたい。そういう人なのです。
ではAIを使う人はどうでしょう。中には、テクノロジーを使いこなすことに喜びを感じている人はいるでしょう。そういう人はちょっと似ている。
でも、懸念される事態、AIにより人間の作った作品が駆逐されるという場合には、大量にAI作品が供給されているはずです。そこに登場する使い手は、物を作るささやかな喜びよりも、手軽に評価が欲しい人ではないか。もっと言うと、簡単にぼろく儲けたいと思っている人ではないか。
そうなるとですね。前述の通り、道具としてAIを使いこなして尖ったものを作ることは可能だとは思うんです。大量に試行錯誤して出力させれば、その中にはいい表現があるかもしれない。
しかしそのために使う時間。さらに言うと、判断できる人になるためにも膨大な時間が必要です。もう受けるとわかっているものがあるのに、わざわざ時間をかけてうまくいくかどうかわからないその試行錯誤をする、その試行錯誤を判断する力をつける修行をする、そんなインセンティブがあるでしょうか。
そう考えていくと、人が生き残る余地は、その辺りには必ず残るのではないか。創作する人間が極めなきゃいけないものは、そういうところにあるはず。
ただこれは、なかなかリターンがないところにあえて行くということでもあります。その覚悟と作りたい個人的な動機を大切にしながら、進まなければいけないなと思います。
| 固定リンク
コメント