大相撲令和三年七月場所 強さとは
大相撲名古屋場所は、千秋楽横綱大関全勝対決の結果、白鵬関の優勝となりました。
どちらも「怪我からの復帰」がバックストーリーにあったのですが、照ノ富士関の序二段まで落ちてからのカムバックの方が心打たれるものがあり応援してたんですけど、負けちゃって残念。
白鵬関の全勝優勝は立派な結果なのですが、これだけ「強さ」を感じさせない全勝は初めて見たなという感想です。
勝つことにすべてを注ぎ込んだ感じで、打てる手はすべて打った。翔猿関から拝借したような十四日目の正代関に対しての立ち合いとか、千秋楽の相手のペースにさせないための横綱、先輩の格を押し付けるような立ち合いとかもそう。
解説の北の富士さんは放送中に嫌悪を隠さなかったし、場所後の横綱審議委員会で照ノ富士関の横綱推薦のコメントでも、白鵬関についてがいろいろ言われている。
この辺は文化の問題だから難しいですねー。
ルール的にはまったく問題ないんですよ。反則をしたわけじゃない。むしろ、追い込まれた場所で本当に必死という気持ちが、すごく伝わってきた。そういう意味では結果を出して、それを家族が泣いて見ていたりとかしたのは感動的なシーンでした。
ただ、考えていくと、プロとは何かという問題が出てくる。土俵の外の問題なのです。
これは格闘技には常に付きまとう問題です。「それで勝つことに何の価値があるの」という問い。僕は今はもうすっかり動けませんが一応合気道四段で、習った流派が古流柔術に近いものだったので、いろいろそっちの技術も調べたんですよ。あと中国拳法も習ってた。そもそも相手を暴力で無力化するのが武術の本質。なので当然、急所攻撃は技術体系に組み込まれていて、相手をぶっ壊す技術を突き詰めていっている。
ところが戦場ではそれは自分の命を守るためにとても役立つ技術だけど、平時の世の中ではあまり喜ばれる技術ではない。そんな技術を持っててちらつかせる人は嫌われ者。
なので、格闘技には「正しい勝ち方」がある。「強さ」をどう表現すべきかという作法がある。かぎかっこ付きなのは、それは尊敬、称賛されるものでなくてはいけないから。そして文化によってその形がいろいろ違う。
ボクシングのこぶしでど突き合って殴り倒した方かが勝ちというKO。レスリングの相手を力で地面にねじ伏せたら勝ちというピンフォール。そして相撲の、投げたり押し出したりして、土俵に一人仁王立ち。単に相手を戦闘不能にするということではなくて、「強さ」を見せている。
そういう流れで、江戸時代の相撲興行の中で「横綱」も生まれているので、品格がどうのとか勝ち方がどうのとかいうことが問われるんですよね、きっと。同時期に武道がやたら礼節を重んじるようになったのも、そういう流れがあるんだろうと思います。戦国時代が終わって平和になった社会に受け入れられるために、尊敬される強者である必要性。
でもそれは日本社会の中で培われてきた価値観で、場所が違えば「強さ」の形もまた違うはず。外国人力士がよくこの手の話で問題視されるのも、そういうことがあるのでは。
異文化理解って、本当に難しいですよね。
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