デジタル教科書とAI先生
恒例の日曜日のHON.jpブロードキャスティングを見て考えたこと。今回のゲストはライターで書評家の嵯峨景子さんでした。
今回取り上げられた記事で気になったのはこちら。デジタル教科書 紙と活字が人間形成の基本だ 読売新聞21/1/31
導入検討が進むデジタル教科書に、学習効果は紙の教科書の方があるはずだから補助教材にとどめるべきという論説。
鷹野さんはこの読売新聞の姿勢を「紙に対する妄執」と言っていましたが。
僕はもっときつめに「アンチテクノロジーの老害は去れ」と言っておきます。
文中にある、先行導入例で問題があったというのは、実際あるだろうなと思うんですよ。でもそれはデジタル対紙の話ではないと思うのです。
学習動機の弱い子供に動画解説を見せても、ぼーっと見ているだけで集中できないだろうなというのはあります。でもこれは、対面授業でうまい先生は、いいタイミングで問いかけを入れて生徒に能動的な思考を促すからという授業テクニックの話です。紙のテキスト使ったって、下手な先生に当たって一方的にぼそぼそしゃべられているだけの授業だったら、眠くなります。
文中に斉藤孝教授の話が取り上げられていたので、どの発言のことだろうと調べてみたのですが、「紙の本は書き込めるから」という話だったら、それは技術に明るくないだけです。実際に書き込めるサービスはあるので、教科書の作りの問題です。むしろ技術で解決すべきです。
だいたいこの手の「人間性がー」とか言ってテクノロジーを批判する人って、基準が自分が育った時期なんですよね。単に環境の変化についていけてないんですよ。「紙と活字が人間形成の基本」だなんて、じゃあ江戸時代どうするんだよ。ヨーロッパは活字を組み合わせて刷る活版印刷が主流だったけど、日本は手書き文字を彫った木版印刷じゃんか。人間形成されてなかったとでも言うのか。
もしかしたら読みやすい活字より、手書き文字を読む方が判別が難しい分、脳が活性化されるかもしれない。でもそうだとしても、絶対にそこまで戻れとは言わない。「メールより手紙」論もよくあるけど、硬筆より毛筆の方が心の揺れ動きが筆先に表れてよいという議論にはならない。結局論者が慣れているかどうかだから。なので老害は去れ、と言いたくなるのです。
僕的にはむしろ、テクノロジーがもっと進んで、現在の教育の問題を解決したらいいのにと思います。デジタル教科書の先に、AI先生が欲しい。
例えば小学校の算数って、「計算手順を覚える」という範囲がけっこう広いのですが、あれ、トレーニング回数の問題だと思うんですよね。ちょっと話を聞いてすぐに手順を飲み込める子と、なかなか覚えきれない子がいる。でも徹底的にトレーニングすればいつかは飲み込めると思うのです。
ところが、大人数にいっぺんに教えているから、飲み込めないうちに次に進んでしまい、こぼれる子が出る。
AI技術が発達して、AI先生が組み込まれたテキストが問題を自動生成して何度も繰り返し、正答率だけではなく目線の動きとかペン先の動きとかまでチェックして、この段階はクリアしたなと判断したら次に移る。授業進度は完全に個々の子供に合わせて、到達度は算数何級とか何段とかにする。普段の生活で必須なのはせいぜい四則演算だから、最低そこをクリアすればOK。漫画家なんて、計算するの確定申告の時ぐらいですからね。微分積分とかのその先は、それを使う学科とか仕事の方で、募集要項に数学何段までクリアしている人と入れる。
それぐらいまで進んだらいいのに、とよく思います。
それにしても、紙が上位と唱える上層部の下で、その記事をオンラインで流している読売新聞の担当の人、やるせないでしょうなあ。デジタル版にしたら読者に働きかける力が弱まるんだってさ。
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