マスコミをやめる
毎週恒例、日曜日のHON.jpブロードキャスティング。今回のゲストは作家の海猫沢めろんさんでした。
今回もいつも通り、僕が気になった記事に対しての感想を書くのですが、その前に。
海猫沢さん自身のお話が興味深かったです。最初のゲストの方のお仕事等の紹介をする流れで、小説家デビューの話になり。ビジュアルノベル形式のゲームを作っていて、そのノベライズで小説家デビューとのことだったのですが。
そこで自分でDTPソフトを使い版面を作っていたというお話。フォントをいじった表現とか、本の小口のところに文章が浮かび上がるようにしたりとか、いろいろな工夫をふんだんに盛り込んだそう。おもしろい。僕自身も書いている時に小説には存在しないコマ割りを意識してたりするので、そういう視覚的な仕掛けを意識するのは、純正小説家ではない経歴から来るんだろうなと思いました。
さて、今回取り上げられた記事で一番気になったのはこちらです。「静岡新聞SBSは、マスコミをやめる。」社員809人が実名とともに決意を表明 AduerTimes 21/1/14
静岡新聞SBSが仕掛けた広告が話題になってました。マスコミをやめるというキャッチコピーとともに、血判状のような赤い指紋。よく見るとその一本一本が全部文章になっていて、社員の決意表明がずらっと書かれている。読者をひとかたまりのマスとして記事を出すのではなく、もっと読者一人一人に対して書いていく、というのがマスコミをやめるという決意表明の意味。仕掛けとしては非常に面白いですし、コピーの選び方を含めて、非常に効果的な広告だと思います。
ただ残念ながらもう旧弊でしかないよな、というのが僕の感想。
海猫沢さんもズバズバ斬ってて痛快でした。「面白いなと思って今どうなってるんだろうとサイトに行った。トップ10が全部コロナ記事だった。この手の決意表明は超無意味だと思っている。どうやってやるのかがない。これではなにもないまま終わる。電通には騙されんぞと思った」冗談めかした口調でしたけど、遠慮なしw
僕も、この記事を見かけた時点で、まあそんなもんでしょと思ってたんですよね。言葉の強さに見合うほど考えてはないだろうし、その強い言葉自体が広告代理店側からの提案で言葉遊びなんじゃないのかなと。
マスコミは現在、非常に危機的な状況にあると思うのです。ですが中の人たちは、あまりそれを感じていないのではとも。こういう疑問をぶつければ、そんなことはない、危機感を持っているし、考えていると反論するのでしょうが、行動を見ている感じでは旧来のパターンから抜け出せずに、全然足りてない。だんだんと条件が悪くなってきているとはいえまだまだ優良企業ですし、会社と家の往復ばかりしていれば市中感覚にうとくなるのは他の企業でも見られる仕方のないことで、その温度差がある。
ただですね、メディアの力の源泉って結局信頼感じゃないですか。あの人が言うなら、ただの与太話じゃないってところですよね。それは看板「が」与えるものじゃなくて、日々の行動の積み重ねが看板「に」与えるものだと思うのです。
最近話題になった例では、望遠レンズによる圧縮効果。コロナ禍でも人出がという記事に、望遠レンズで撮った写真をつけて、密になっているように見せかける。あれは何度か批判されているのに、このあいだもあって、さらにカメラマンが言い訳していました。
ああいうのがアウトです。皆が情報発信できるようになった結果、情報が独占できない。なのに昔ながらに結論を先に決めた記事に使いやすい写真を撮る。そして、その写真を取ろうと脚立に乗って群がってる各社カメラマンの姿と、手に持つカメラのどでかい超望遠のレンズが拡散されてしまう。
さらに、後になってビッグデータ解析で、実際の人出が何割減になったか、という情報も流れちゃう。最初の時にはそれで赤っ恥をかきました。
そんなことを繰り返していて、ああ、危機感煽って記事の見出しで注目集めたいんだな、と思われたら、もう信頼感で商売なんかできないですよね。でも今までの業界の慣習から抜け出せない。下手するともう、パブリックエネミーになる位に信頼感を失っていると思うのですけれども。
同時にもう一つ、コタツ記事の話題も取り上げられていました。「もはや、これ、ライターの仕事じゃない」 NHKねほりんぱほりん「こたつ記事」特集に反響 JCASTニュース21/1/14
僕の書いているこの記事がまさにコタツに入って暖まりながら書かれているリアルコタツ記事ですが、そういう意味ではなくて、公開された情報だけで、独自取材なく書かれた記事のこと。そんなのコタツに入ったままでも書けるだろ、という批判的文脈。
これも信頼感の有無という、同根の話だと思うのです。取材した独自ソースがなかったとしても、その分野のニュースをものすごい量、網羅的に見ていて、精緻な論旨の組み立てをすると信頼できる人の記事なら、読む価値を感じる。てきとーにちゃちゃっと書いてるよなと思えば、読むだけ時間の無駄。
今日は誰でもが情報発信できるようになったので、その質でプロなのだということを証明し続けなくてはいけない。常に信頼に足るかどうか見比べられていて、肩書きだけでは足りない。そういうことなのだと思います。
ちなみにこうして厳しく見ているのは、自分にも関わりがあるからです。僕は全然ジャーナリスト志望ではなく、ブロガーとしてそっち方面の記事を書いて有名にとも思ってないのですが。
誰でも発信できるというのは小説も同じで。
読んでもらった作品で面白いものを書く人だと信頼感を勝ち取らない限り道は開けないけれど、すんごいライバルがたくさんいる、レッドオーシャンになってるんですよね。
生半可ではどうにもならない、大変な時代ですねえ。
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