日本テレビで放送中のドラマ「明日、ママがいない」で、スポンサーが全社CM見合せとなったそうです。
児童養護施設や赤ちゃんポストを題材にしたドラマで、現実に赤ちゃんポストを設置している慈恵病院が「フィクションにしたって演出がひどすぎる」と抗議したのがきっかけ。
作中で子供に「赤ちゃんポストに捨てられてたからポスト」とかひどいあだ名つけてたり、職員が子供をいじめてたりという表現があったそうな。
見てないので、ドラマの中身の論評は置いといて、表現の自由と公序良俗について考えさせられました。
このドラマの脚本は野島伸司さん。「高校教師」「家なき子」が代表作。元々過激な筋立てや、インパクトのある表現をする人です。
そしてそれは、お話を作る立場からすると、悪いことではないのです。
当事者なら、もっと細かい日常の中で感情が動いているけれど、外から見ている人にはそこまでの想像力はない。だからお話で興味を引っ張るためには、インパクトを盛らなきゃいけない。これは創作の現場では普通の思考パターン。
それが現代の問題を提起した作品だと、こうして現実とぶつかってしまうことがあるわけですが。
これぐらいならいいとか、これなら悪いとかの、程度問題でもないと思うんですよね。そもそも、表現の自由、言論の自由は、人を傷つける可能性がある物だと考えているので。
クリエイターなら、そのリスクも受け入れるべきだと思ってる。人を傷つけても表現する衝動が抑えられない、業の深い存在が、本物の表現者だから。
だから「この作品にはこのシーンが必要」と信じられるなら書くべき。
逆に、そういうリスクを受け入れて表現の自由のため戦う気がないのに、おいしい上澄みだけほしいと寄ってくるやつは、創作者にたかる寄生虫だと思っているので、今回日本テレビがちゃんと放送する決断をしたのは支持します。
「あれだけ騒ぎ起こして、傷つける人も出して、それでこの程度?」と、終わった後にたたかれちゃうかもしれないけど、そこまで含めるのが作品を発表するということですよ。さあ、どうなるか。
あと、表現者として表現の自由を守るため戦うべきだ論の他にも、考えることがあって。
クレームがついたからやめるということをすると、そもそもの問題がこじれてしまうのではないかと思うのです。
最近でそれがひどくなって目立っちゃってるのは、日韓関係と在日の問題ですよね。
こちらに負い目があるから、向こうのクレームを聞いてくさい物には蓋しておいたら、めちゃめちゃこじれた状態で噴き出してしまった。同じようにまた蓋しようとあがいてますけど、情報化社会になってしまって不都合な真実が広まっちゃうから、もう難しい。最近は、全部一度リセットするしかないんじゃないかというのが感想。
こちらの「捨てられてしまう子供」の問題も、赤ちゃんポストとか児童養護施設とかは対症療法で、そもそも捨てる親をどうにかしないと、傷を軽減することしかできない。
ドラマをきっかけに真面目なドキュメンタリーも作って、議論を深めるのが本筋の対応じゃないでしょうか。行政の支援とか性教育とかの改善で、受け入れ態勢のできてない人に子供ができちゃうのを少しは防げるような気がするけれど、これは素人考えなのか。現場でやれることはもう全部やっちゃった結果なのか。そういうこともよく知らないわけで。
子供がみんな幸せに育って欲しいとは真面目に思うので、かわいそうじゃないかとたたいて終わりじゃなくて、いい方に回ることを期待するのです。
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