日記・つぶやき2011

2011/12/31

2011年のかわせひろし

今年最後の記事は今年の僕のまとめ。

今年は大震災がありました。

今年は、というより、いまだ復興は遠く、現在進行形の事態です。

復興の道筋を決めなきゃいけないのに、政争のネタにしてたり、縄張り争いしてたりと感じるニュースを見ると、もうこいつらは駄目だとがっかりする反面。

被災地を支えよう、みんなでがんばって復興しようという、草の根の温かい気持ちが伝わる記事を読むと、人間って捨てたもんじゃないよねと思う最近です。

僕の住んでるところはそれほど揺れなかったので、直接的な被害はありませんでしたが、物事の感じ方には大きな影響がありました。

その中で特に影響があったのは、情報源の選び方についてです。

原発事故の報道で、明らかに基礎知識がないものが見受けられました。

いろんな質のいろんな情報が飛び交い、僕の周りでもデマに振り回される人がいました。

マスメディアにも、正確な情報を伝えるよりセンセーショナリズムに走り、不安感をあおって部数や視聴率を稼ぐ姿勢のところが目立ちます。

本当に危険があるなら避けなければいけないのはもちろんですが。

ストレスによる病気とかは、チェルノブイリでもけっこう大きな問題だったそうで、質の怪しい情報源はむしろ別の危険を招きます。

信頼できる情報源を探すのは大切だなあと思った一年となりました。食事時に見ていたニュースとかは、けっこうがらっと見るとこ変わりましたよ。

お手伝いしていたシェルクンチクが連載終了した年でもありました。

実は苦戦しているなんて、連載が続いている間はちょっと書けない話だったので。

ここに書いてた漫画話にそれの影響があっても、何を見てそう考えたかは書けず、「いきなり結論」になっちゃってたのです。ここ何年か。

ナベ先生もブログで触れてて、書いちゃっていいよーと言ってたので、そこを今年最後に整理しておきたいと思います。

よく「仕事の後に温泉で漫画の話で盛り上がった」と書いてましたけど、実はその盛り上がった通りの展開になったことはほとんどなかったのですよ。それはどんどんひどくなって。

やりたい事であればあるほど通らないので、ナベ先生はそのストレスで体調を崩し持病が悪化。仕事するのも辛そうな時があった。精神的に追い詰められて「おれは自分の好きなこと描いちゃいけないのか!」と叫んで仕事場を飛び出し、帰ってこないということもあった。

仕事だから思い通り描けない事もあるというのは分かってましたが、こんなにすごい修羅場を体験するのは、僕は初めてで。もしかしたらハーメルの名前だけ貸して編集部の望む形で描ける別の人に描いてもらった方がよかったのか、と考えたぐらいでした。

これだけ苦しんでても、出来上がったものはちゃんと自分の色にしてあって、ナベ先生はえらかったと思います。

ただ、逆の視点から見て。雑誌から浮いてるなーとは感じてたし。

それに出版不況が続いています。ピークからもう三割も落ち込んでいるのです。そして、下げ止まる様子がありません。早く結果を出してくれというシビアな注文が来るのは当然で。

あなたの作家性よりもウチの雑誌はこういう読者傾向です、こういう展開にしましょう、という話に。僕だけじゃなくて他の人の打ち合わせを聞いてもそう。

だからこの事態も、そういう部分から生じたミスマッチが、思惑違い、ボタンの掛け違えを生んだんだろうなーと納得はしているのです。

ただ、ナベ先生ぐらい個性がはっきりしていてその実績もある人でもこうだったら、僕の個性なんて掃いて捨てるチリのようなもので、まったく考慮されないぞと、ぞっとするわけですよ。

こういうのが描きたいとか言っててもらちあかない、というのを思い知らされたのです。

確かにもともとあることだったんだけど、雑誌とのマッチングについて、すごく考えさせられました。最初からがっちり合ってるものを出さなきゃ駄目だ、という思いが、とても強くなりました。

でもそれだけじゃ、ちょっと寂しい。描きたいものが描けないなら何で漫画家になりたかったのかなあ、とか思っちゃう。せめて仕事と平行して好きなものが描ける、ちっちゃくても自分のホームになる場所が欲しい。

そこでちょうど話題になりだした電子書籍にすがる気分になり。

商業誌でしなきゃいけないことは分かってるのに対して、電子書籍の方はどうなってくのか先行きが気になるので、ニュースに敏感になって、電子書籍が、電子書籍がという発言が増える。

そういうここ何年かだったのですよ。

考えてみたら。

今年、昔描いた「LITTLE BIT WONDER」を同人誌でリメイクしましたが、あれはリアルタイムで読んだ人に、「すごい変わってる漫画だったので、何でいきなりこんなのが載ってるんだろうと思った」と言われたことがあるのです。

そんなに毛色の違うものを、何でやろうということになったのか、思い出せないんですよね。しかも、会議でみんな見たはずなのに、「まあ載せてみるか」ということになったわけでしょう。

ナベ先生も最初のハーメルは、楽器を奏でる美少年が集まってきたハトを撲殺して食うという、これがシリアス漫画になるわけないでしょというスタートから、のちのちああいうふうに展開してもよかったわけで。

大らかな時代だったなあと。そして、もう遠くなったんだなあと思うのです。

ただ、さっき電話で話した時に。

「漫画楽しいよね」「そうですよね」というところに話が落ち着いているので。

環境が変わっても、なんだかんだで描き続けるんだと思います。無心で没頭している時、漫画描いてるのは楽しいよ(^^)/

さて、最後に恒例、元旦の記事を読み返して、今年の達成率を見てみると。

「ケッタ・ゴール!」進んでねー。死ぬまでに終わるのかな、ほんと。×。

「Spring8」は終わらせて、次にすぐ「LITTLE BIT WONDER」を。これが今思わぬ効果が出ていて、使ってなかった個性を引き出せるかもしれない展開。これは◎。

立ててた企画は「CLONE04」で、結果は出せなかったけど、手ごたえはあった。△。

毎年こんな感じだなあ。ほどほど(^^;;)

自分のホームを探す旅は続きます。

それでは皆さん、よいお年を。

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2011/12/24

今週の雑感記 取りこぼし

12月に入ってからの怒涛のレイソル祭りは、天皇杯四回戦のPKサドンデスという死闘で幕となりました。

そしてふうと一息ついて気がついたら、もう今年が終わっちゃう!

多分これが今年最後の雑感記ですが、本日の話題はこちら。

面白さを取りこぼしているのではないか、という話。

先週の雑感記で米アマゾンの電子書籍ランキングの話を取り上げましたが、それに関連して。今度は一位の人の記事。

Amazonの電子書籍部門No.1になった個人作家Darcie Chan氏、ネット上での作品プロモーション法を明らかに

【編集部記事】今年の米Amazonの電子書籍部門ランキングNo.1作品となった「The Mill River Recluse」の著者Darcie Chan氏だが、個人作家としてどのようにして作品をネット上でプロモーションしたのかが米Wall Street Journal紙の記事に書かれている。

同紙記事によると、弁護士でもあるChan氏は政府系職員として働いていたが、2002年頃から医師である夫が夜勤のため帰宅が遅くなり、空き時間をつぶすために小説執筆を始めたとのこと。「The Mill River Recluse」は昔故郷で起った実際の事件をインスピレーションに、2年半ほどかけて執筆。しかし、原稿自体は出版社すべてに相手にされなかったため、そのまま5年間ほど放置。

昨年、ふと電子書籍ブームの噂を聞き、Photoshopで表紙を作り、Amazon・Barnes & Nobles・Smashwordsにファイル納品。価格を99セントに下げた途端に読者からのレビュー評価が上がり始めたため、「プロモーションすればもっと売れる」と直感し、ネット上の複数の人気書評サイトに数百ドル単位で広告料を払い、書評記事を書いてもらったとのこと。結果、電子書籍の販売部数が伸び、新聞社の書籍ランキングにも入るようになり、現在は映画化のオファーまで来るように。

続編も検討中のChan氏だが、本人によると本職はあくまでも弁護士で、現在も小説執筆はホビーであるとしている。【hon.jp】11/12/20

電子書籍を百万部売って話題になったアマンダ・ホッキングさんも、書評サイトに依頼したのがきっかけ。こういうのがこれからけっこう重要になるんだなと。キュレーションというやつですね。

ただ、僕が気になったのは、発表までの経緯の方です。「原稿自体は出版社すべてに相手にされなかったため、そのまま5年間ほど放置」。

一位の人もか!

前回も書きましたが、ますます何かを取りこぼしてるんじゃないかとの思いが強くなりましたよ。

ハリー・ポッターの出版経緯の話も有名です。あれだけの作品が、十社ほどの出版社で採用されず、しかも最後は読んだ子供の面白いという言葉が決め手になっての出版。

あの時、世の中には途中でくじけてあきらめてしまい、埋もれちゃった傑作がたくさんあるのではないかと思ったのですが。

アマンダ・ホッキングさんも、何年も出版社に送って採用されず、電子書籍で自費出版。先週紹介したマイケル・プレスコットさんも、25社でボツになって電子書籍自費出版。そしてこの記事のダーシー・チャンさんも。

やっぱりたくさん埋もれていたということですよ。

そしてこれは、出版界で重要とされているチェックポイントが実は重要ではない、もしくは逆に、もっと重要な面白さのチェックポイントがあるんだけどそこを見ていない、という可能性を示しています。

どこなんだろうなー、気になるなー。ネタの話だったらちょっと読めば分かるかもしれないけど、もっと細かいところだったら僕のしょんぼりな英語の読解力じゃ読み取れないんだよなー。

英米だけの話じゃなくて、ケータイ小説のブームがあったように、日本でも起きていると思うのです。ケータイ小説への批判は文章が稚拙だというものでしたが、要は伝わればいいので、着飾った文章は高級そうに見えるでしょという自己満足だった。

ただ、ちょこっと読んでみたところ実話を下敷きにした悲恋ものが多いようだったので、僕みたいなフィクション描きにはあまり参考にならなかったのですが。

ホッキングさんの作品は、バンパイアものらしいです。日本でいうとラノベっぽいやつ?

ハリー・ポッターを読んだ時には、チェックされたとしたらファンタジーなわりに出だしが地味なところで、実際にはそれよりハリーのキャラクターを身近に感じてもらうことの方が重要だ、ということかなと思ったのですが、さて。

取りこぼしているのは、いったいどこだ?

電子書籍では、こんな話題もありました。違法ダウンロードで作家が断筆。

電子書籍否定派のスペイン有名作家が違法ダウンロード者への怒りで“断筆宣言”、批判でFacebookページが炎上

【編集部記事】現地報道によると、スペインの有名女流作家のLucia Etxebarria氏が、最新作の違法ダウンロード者への怒りから自分のFacebookページで今後“断筆”することを宣言したとのこと。

各種報道によると、Etxebarria氏が3年かけて執筆した最新作の違法PDF版がネット上で出回っており、「これでは生活できない」として抗議の意味も込めての“断筆”を宣言。その結果、ファンや他のFacebookユーザーからの批判コメントが殺到し、Twitterやメールも含め炎上。「どうして私が攻撃されなきゃいけないの」と新聞各紙のインタビューに答えている模様。

英The Guardian紙によると、Etxebarria氏は電子書籍否定派で、「電子書籍で売ると違法コピーがさらに増える」と発言している模様。【hon.jp】11/12/21

日本でも自炊業者を作家が訴えました。日本の場合は、電子書籍の需要があるのに対応が完全に遅れてしまっている問題でもありますが。

多分、この違法ダウンロードに対する恐怖というのは、あまり読者に伝わらないんだろうなーと。ただの方がいいに決まってるから、みんなそっちに行っちゃって、生活成り立たなくなるんじゃないかという恐怖。

実際はただほど高いものはなくて、職業として成り立たなくなった場合、他に仕事をする分発行ペースはずーっと遅くなるし、練習量も減るわけだからあまりクオリティも上がらない。漫画の場合は職人的技能が多いし作業量も多いから特にそう。長期的にはみんな損なんですけど。

でも時間潰しだから別に質にこだわらないという人だったら、ただの方がいいだろうしな。

違法ダウンロードは、売ってる物をただで持ってくのは窃盗だから本質的にはよくないことですが、撲滅は難しいと思います。

そのためにコピーガードをがっちがちにすると、使いづらくなるし。僕もデジタル放送の番組を録画しようとして、フォーマット間違えて録れてなかった時には、ぎゃーってなるし。

まあ、あと紙の本で言うと、もともと読者全員が作者にお金を払ってるわけじゃないですしね。人から借りて読んだら払ってないし、古本は著者にはお金入らないし、図書館やコミックレンタルも大勢にシェアされてた。

なので全員から取りこぼしなくお金をもらうことを考えるより、大切なことがあるような気がします。

紙の本でも万引きがあったのに、違法ダウンロードの方が怖いのは、敷居が低いのでみんなやるんじゃないかという性悪説的な人間に対する不信と、盗んだ物が隣で配られているというその悪意の証拠がネットでは簡単に見えることだと思うので。

逆に善意も見えるといいんじゃないか。

以前個人出版に必要なことを説いた記事を読んで、「クラウド・ファンディング(Kickstarter.comなどを使った制作資金の調達)」というのを見かけました。

今まで読者というとひとかたまりのイメージだったわけですが、実際には入れ込みかたは人それぞれなので。

例えば「これから引きこもって創作にかかるのでその資金を募集、支えてくれた方には特典を差し上げます」的な仕組みができると、「お前の作ったもんに金払う気なんかねえ!」という人ばかりではないんだと、恐怖が打ち消されるんじゃないでしょうか。

作者→読者じゃなくて、作者→作者を支えるサポーター→消費者、みたいな構造。電子タニマチ制というか。

僕もそしたら支えたい作家は何人かいるし。

人と直接つながりやすいという、ネットのいい面も生かされるといいなあと思います。

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2011/12/18

今週の雑感記 贅肉をそぎ落とす

レイソル祭りが続く今週です。

何かたった半月ですごいところまで来たなあという感じ。世界と戦ってるんだよ。

一昨年の今頃は、ああ落ちちゃった、さて来年みんなちゃんと残ってくれるかなとすっかりオフシーズンだったわけで。

それを考えると、人生不可能はないなと思います。

今日も勝ちたいですね!

さて、本日の雑感記のお題はこちら。

hon.jp DayWatch - 「電子書籍の作家には文字数は指定しないほうがよい」米Harvard大学のジャーナリズム研究誌 http://hon.jp/news/1.0/0/296…… こういうところも変わってくんだと思う。

ページに合わせるというのは職人的技能で、これができるようになると全体が見通せるようになる。俯瞰して全体の調節をしながら描けるようになるから。最初のうちは頭から描くのが精一杯で、前が膨らんで後ろが尻すぼみとか、バランスが悪くなることが多い。

また、無駄を省かなければ入らないので、部分部分の重要度を比較する習慣もつき、構成力は上がる。なのでページ内に収めるトレーニングをすることは悪いことではない。

ただ、面白さの追求につながるとは限らない。ホントはここは大きく取った方がいいんだけど、ページに入らないからほどほどの大きさでとか、ここ膨らましたいけどやめとこうとか、妥協が必要になるから。

ページ制限は紙面の都合とかスケジュールの都合とか、紙である制約から生まれているのだから、とっぱずせるならない方が面白くなると思う。要所をついたぎゅっと詰まった密度の高い面白さを保ちつつ、それでも最適なページを模索しながら描くのが一番。

描き始めの人にお勧めの練習は、12pぐらいでオリジナルの漫画を描くことです。スパッとキャラを立てなきゃいけないとか、説明は最小限とか、それでいて大きな見せ場を取るにはどうするとか、すごい頭使うから。11/12/15

プロの記者に比べて長くなりがちなブロガーの記事を、試しに電子書籍として売り出してみたところよく売れた。紙媒体時代には常識だった文字数の指定は、電子書籍時代になったらいらないんじゃないかという記事。

漫画の場合もそうなるんじゃないかな、その方が面白いから、と思うのですが。

ただ、ページ制限の中で描く苦労をするうちに、身につく構成力というものは確かにあって。

これができないと、ただ無意味にだらだらーっと長くなるだけで、面白くなんないんだよなとも思うわけです。

そんなことをツイッターでつぶやいてたら、高山瑞穂先生からリプライをいただきました。

高山先生はボンボンやガンダムエースでガンダムの漫画を描いてらした方です。

高山先生は、京都精華大で講師もなさっているそうで、許可いただいてやりとりをご紹介。やっぱり有効な練習法のようですよ。

(高山)@kawasehiroshi ですよね。ウチの大学でも通常課題として8ページや16ページの読短編み切りを描かせています。それでキャラや世界観や物語を描き切れるようになれば、長い作品になってもきっと大丈夫。

(かわせ)@mizpi 僕は昔ショートコミックの企画で、二十何本描いて採用は二本というとてもつらい打ち合わせをしましたがw、あれの前後ではっきり自覚できるほど構成力が上がりました。一エピソードに絞って大ゴマも可だと12pぐらいかな、という感覚です。長い話でもそれの繰り返しで作れますよね。

(高山)@kawasehiroshi 基本的な構成は長い連載作品でも短編でも同じですもんね。作品を面白くする方法の基本は「削ること」だと思っています。盛り込むことなら誰だってできるけど、削るのは本当に技術やセンスが必要になって来ると思うのです。

(かわせ)@mizpi 思いついたこと全部並べたらわけ分かんなくなりますもんね。ほんとに伝えたいこと見極めて、要素同士の関連性を考えて、贅肉そぎ落とす作業は必要ですよね。ただ「その余分なお肉がぷにぷにして触り心地がいいのに」ということもあるから、面白くするのって難しいですよねー。

削るのが大切というのはよく言われることです。僕がそれをお肉に例えたのは、高山先生の言うセンスを含めたかったから。

美しい身体と言ったとき、脂肪分ゼロがいいわけじゃないじゃないですか。ゼロだとむしろ気持ち悪い(^^;;)

言葉の意味にけっこう幅があって、体脂肪率一ケタ台のアスリートのようなシェイプされた身体を美しいと言う時もあるし、ぷにぷにした柔らかい曲線を美しいと言う時もあるわけで。それでどこを目指すかが個性。適切な所を削ってきれいな形に整えるのがセンス。

例えば、セリフもなるべく削った方がいいと言われるんですが、荒木飛呂彦先生は、削るどころか、一つのフキダシの中の言葉の量も多いし、フキダシもたくさんある。

でも、荒木先生にはきっと面白くするための取捨選択の基準があるんですよね。セリフめっちゃ多いんだけど、むしろそれが楽しい。

セリフの削り方一つにも、寡黙な漫画から饒舌な漫画まで幅があって、自分はここだ!という場所を見つけるのは、けっこう大変なのです。

そのためにも描いて練習だと思います。

ただ、最近は長い連続物の漫画が多く、コンパクトにまとめる時のお手本が、なかなかないかもしれません。

今僕のとなりの本棚にあるやつだと、そうですね。藤子・F先生がすごく上手いです。

子供向けのドラえもんだとそんなに感じないかもしれませんが、SF短編集とか、あとエスパー魔美は、難しいお題をコンパクトなサイズでバシッと描き切っていて、匠の技を感じます。

SF短編のミノタウロスの皿がすんごいインパクトなんだけど、ちょうど全集で出てた。未見の方はぜひどうぞ。

さて、最初のツイートと同じサイトで、こんな記事も見ました。

米Amazonの2011年の電子書籍販売ランキング、トップ10作品のうち3作品は実は個人作家

【編集部記事】米国の電子書籍ニュースブログ「eBook Friendly」によると、Amazon社(本社:米国ワシントン州)は現地時間の12月14日に公開した2011年度の書籍売上ランキング表で、Kindle部門トップ10のうち3作品は、出版社を介さない直接出版による作品であることが判明したとのこと。

紙書籍と人気評価を含めた総合ナンバー1はおおかたの予想どおり「Steve Jobs」(著:Walter Isaacson)。しかし、このランキングをKindle部門だけに絞ってみると、1位は個人作家Darcie Chan氏の「The Mill River Recluse」で、2位もやはり個人作家Chris Culver氏の「The Abbey」となっている。【hon.jp】

「まさにゴールドラッシュ状態」米USA Today紙、電子書籍市場を牽引する個人作家たちを取材

【編集部記事】米国の全国紙USA Todayが現地時間の12月14日、米国の電子書籍市場を席巻している個人作家たちの取材記事を掲載している。

米国では、2年前にAmazonがApple対抗策として個人作家向け電子書籍出版サービスの支払ロイヤリティ率を大幅引き上げした頃から、電子書籍の執筆に参入する個人作家が急増。すでに年収1億円以上の“ミリオンセラー個人作家”も数名登場しているが、今回USA Today紙が最初に取材したのはMichael Prescott氏というベテランの個人作家。そのPrescott氏は、最新作の原稿が出版社25社にボツ扱いされた後、もったいないのでそれを今年電子書籍で発売してみることを決断。結果、30万ドル(約2,100万円)の収入を獲得したとのこと。

記事中でPrescott氏は、「電子書籍を発売したときはどうせ数百ドルくらいの売上にしかならないだろうと思っていた」「まさにゴールドラッシュ状態」と現在の電子書籍市場を表現している。【hon.jp】

11/12/16

個人出版でも、出版社を通すのと同等のちゃんとしたビジネスにできる可能性があるのだ、というのは分かって。

最近気になっているのは、二つ目の記事なんですよね。プレスコットさんは25社ものボツを受けたそうですが、それが成功。

このパターンを何度か聞く。つまり今までの出版の常識の外に、重要なポイントがあるということですよね。

編集者がついてきちんとチェックして、クオリティとしては上と思われる作品に勝つのだから、すっごい重要なツボなはずですが、それはいったい何か。とても気になる。

でもなあ、英語で読んでも、あらすじ理解するのが精一杯なんだよなあ(^^;;)

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2011/12/11

今週の雑感記 小惑星探査機はやぶさの危機と科学の応用

僕の好きなものの一つの柱、サッカーについてはもう、こんな幸せあっていいのだろうかという今週でしたが。

別の柱、科学については、うれしくない話題が。

はやぶさ2の危機。

あの「はやぶさ」後継機、存亡の危機:日経ビジネスオンライン http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/2…… 瀬戸際。何とかならないものか。

日本はもともと、その経済規模に対して科学にかける予算が少ない国なのですが。

震災があったので、余計ピンチに。

何か科学予算全般にやばいという話もちらほら聞きます。種まかないと芽が出ないよー。研究にお金出さないと、その応用も生まれないんだよー。

宇宙開発が始まって半世紀を過ぎ、気がつけばケータイにGPSが入ってる世の中ですよ。「ケータイにGPS」って検索したら浮気調査って出たよ(笑)。それぐらい応用されるようになったんですよ。

小惑星探査だって、そのうち地球上の鉱物資源を全部掘りつくしちゃった時、小惑星で掘ればいいじゃんという話になるかもしれない。

そんなでかい話じゃなくても、細かい応用があるに違いない。

どうなるのかなー。

どうも日本社会は科学に冷たいです。

もう、みんなもっと科学に関心持つべきですよ!

ということで今日のお題、科学の応用について。

こういうことを言っていると、それは好きだからじゃないの? とか、だいたいその研究なんの役に立つの? とか言われちゃうわけですが。

科学史を見てくと答えがあるんですよね。

例えばこういう疑問があるとします。

「岩を砕くと石になる。石を細かく砕くと砂になる。じゃあ、ずーっとずーっと細かく砕いていったら、何になるの?」

こういうちょっと変わったことを考える人は昔からいて。

物質はもともとなんでできているのか、ということに思索を重ねてきました。例えば古代ギリシャでは、火、空気、水、土の四大元素からできているのだという説がありました。

この考えは中世ヨーロッパで、錬金術へとつながります。元がそういうシンプルな元素なら、いろいろいじったら物質を変えられるんじゃなかろうか。特に金! 金ですよ! 安い別の物質から金を作れたら、大金持ちですよ!

結局金は作れなかったんですけれど、いろいろやっているうちに、化学実験のノウハウが蓄積されていきました。

近代になると、実証科学の考え方が主流になってきます。それまではどこか、科学と哲学がごちゃ混ぜだったのです。化学実験ができるなら、実際取り出そうぜと研究が進みます。

19世紀になると、だいたいの元素が出揃いました。例えば、水は水素と酸素に分けられますが、水素や酸素はこれ以上分けられない。長年の問題に一つ答えが。

ところがここで新たな謎が見つかります。放射性物質の発見です。このあたりで有名な人が出てきますね。キュリー夫人。

放射性物質から変なものが出てるけれど、これはなんだろうと研究を進めるうちに、世界の大元だと思っていた元素に、内部構造があって、元素を作ってるものがあると分かります。

元素、すなわち原子は、陽子と中性子でできた核の周りを電子が回っている。元素の種類が違うのは、その数が違うのだ。これが分かってきたのが20世紀はじめごろ。

さらに、陽子や中性子もまだ割れるということが分かってきます。素粒子です。日本の初めてのノーベル賞の受賞は、この研究の中から生まれます。湯川先生の中間子の予想。

ここら辺りから話はとてもややこしくなってきます。ノーベル賞で言うと、ニュートリノの小柴先生とか、対称性の破れの、小林、益川、南部先生とか、世間で話題になった受賞がありました。

現在素粒子物理学は、宇宙の始まりまで話が及んでいて、ヒッグス粒子が発見されたんじゃないのかというのが最新の状況。

で、こういうちんぷんかんな話に遭遇して、多くの人が思うわけですよね。「で、それはいったいなんの役に立つの?」

立つのです!

何のかはまだ分からないけど!

例えば、身の回りを見渡します。錬金術の研究で化学実験のノウハウが蓄積と書きましたが。

こういう化学によって、どれだけの物が作られているのか。なかったら、とりあえずプラスチックと、ポリエステルとかの化学繊維が全部消えます。

その次、キュリー夫人の辺りは分かりやすいですね。放射線の研究で、X線が見つかります。レントゲン写真が取れるようになりました。X線CTとか、PET検査とかもこの流れです。身体の中の様子が分かるようになって、どれだけの人の命が救われていることか。

その先、原子の構造辺りから、ややこしいなーと感じてる人がいるんじゃないかと思いますが。

電子が見つかった流れから、今度は半導体が生まれます。電子機器の誕生です。電子機器が入ってない家電って、そんなないですよね。インバータにも半導体使ってるしね。コンピューターもケータイもなくなっちゃう。

明かりも、蛍光灯は放射線の研究の応用、LEDは半導体。

というようにですね。

「物質って何からできてるの?」という研究の流れから、枝葉がどんどんどんどん分かれていって、いろんなことに応用されていったわけで。

基礎科学というのは、いわば開墾して畑を作るようなものです。何の種を撒くかはまだ考えてないけど、とりあえず知の地平を広げておく。その後誰かが「あれ? これ作れるんじゃない?」と気がついて、応用が始まる。

その時間差が、何十年とか何百年とかあるのですよ。

そういう超長期投資なのです。文明を進める武器となる、孫とかひ孫の代への遺産。

ちんぷんかんぷんな素粒子物理学だって、そのうち時間と空間の成り立ちを解明して、「あれ、じゃあ、こうすればいじれるじゃん」と誰かが気付き、ホントにタイムマシンができたり、ワープができたりするようになるかもしれない!

見たいけど、生きてないんだろうなあ。何百年後かなあ(^^;;)

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2011/12/10

クラブワールドカップと最終回

本日2011年12月10日を持ちまして、「ケッタ・ゴール!」の版権契約が全部切れたんですよ。

そんな時にすごいなあと思うのは。

レイソルがクラブW杯に出ていることです!

思い起こすと、ちょうどこの時期ぐらいですよ。初めてブンブンに持ち込みに行ったの。

確か仕事中に創刊号見て、それで行ったはず。

で、打ち合わせしていて、サッカー漫画描かない? という話になり、話が普通だねと言われて、じゃあみんながあまり描いていないユースチームのテストの話にしますと言い。その時、僕の脳内で、もしこれが連載になったら、レイソルを出したいと閃いて。

許諾を取ってレイソル出身の監督を出したり、U-12を出したりしたわけですが。

わざわざ許諾を取るんだからこれぐらいで済ます気はなくて、僕のレイソルサポーターとしての夢を、漫画の中で全部かなえる気だったのです。

なので実は最終回はもうその時考えてて。

ケッタ君がレイソルに入って、クラブワールド杯に出る! というものでした。

ちょうどクラブワールド杯が始まる頃でした。これ当時どれぐらいでかい夢かって言ったら、閃いた2004年は最下位で入れ替え戦でかろうじて残り、2005年には降格してますからね!

自分の理想どおりに進んで最終回になるとしたらだいぶ先だけど、それと現実での実現はどっちが先だろう、いやそもそも僕が生きているうちにそんな幸せがくるだろうか、と思ってた。

それが今出てるんだから。打ち切られず、ブンブンも潰れてなかったとしても、全然間に合ってないよ、最終回(笑)。

もうこうなったら世界一になって、「困ったなあ、現実よりすごいことを起こそうと思ったら、もう宇宙人と戦うしかないよ」と世の漫画家を悩ませてください!

今ではケッタ君の方が、僕が生きてる間に終わるのだろうかという感じになってて困りもの(^^;;) 絵入れの途中で中断中。

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2011/12/05

先週の雑感記 宇宙ロマン

一夜明け、幸せに浸っている日曜日。

レイソル優勝はもちろんのこと。

あの試合の直前に、今週考え込んでいたプロットの問題点が解決したのです。

詰まってたところがすっきり解消して、悩みなく幸せに浸ってていい日曜日でした。

さあ、プロットがスムーズに流れたところで、次は細かいシーンのアイディア。面白さは細部に宿る。がんばろう。

ヤマト。

三週前の雑感記で、今度ヤマトのリメイクがあると触れましたが。

宇宙戦艦ヤマト復活篇と、SPACE BATTLESHIP ヤマトを見ました。未見だったのです。

周りで聞いた評判どおりで、いろいろ駄目だなーと思ったのですが。

復活篇はヤマトだけど実写はヤマトじゃない、と感じたのが興味深かったです。

男のロマンとか、ミリタリなロマンとか、宇宙ロマンとか、そういうところがなくて、名場面だけは取り入れてるから、変な感じ。実写の方がもとの話を踏まえているのに、パロディみたい。

監督とか脚本家とか、そっち方面の人ではないからだなと思いました。

例えば実世界でも、空母から戦闘機が飛び立つ時の甲板作業員の身振り手振りとか、ロケットが飛び立つ時のカウントダウンの最中のやり取りとか、僕なんかはすごくわくわくするのです。

波動砲の発射シークエンスがそれにあたるわけですが。

それしかなくて、他のところでは、そういうプロフェッショナルな感じがなくて残念。

宇宙ロマンは、もっと残念。今日の主題。もう力説するですよ。

ちょっと確認しようと思って調べてたら、ウィキペディアにこんなページが。宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体。

実在のもの架空のもの織り交ぜて、たくさん出てきています。こういうのに子供の僕はわくわくしてたわけです。

「宇宙の海は、おれの海、おれのはてしない憧れさ」は、ヤマトじゃなくてハーロックですけど、そういうロマンが大好きだったわけで。

松本零士作品は子供のころ大ブームで、ヤマトにしろハーロックにしろ999にしろ、そういうロマンがてんこ盛り。あれでどれだけ夢を育まれたことか。

何でそこを削ってしまうのか。

木星の浮遊大陸のシーンがありませんでした。確かにあれはSF的うそでしたが、今ならもっといろいろ木星については分かっていて。

浮遊大陸はうそだけど、代わりに大赤斑が巨大な台風みたいな渦だと分かってるわけだから、その中心の凪いでる所にガミラス基地があって、大赤斑ごと波動砲でとかできるなあと。

ベテルギウスのプロミネンスを波動砲で吹っ飛ばすシーンもありませんでしたが。

ベテルギウスは最近の観測で、超新星爆発寸前で、内部から湧き上がるガスでいびつな形をしているとか分かりました。

太陽の千倍も大きく、火星軌道を飲み込むぐらいの超巨大赤色巨星で、どーんと形がゆがむほどガスが噴き出しているなんて、すんごい絵なのにもったいない。

どうせ名前頼りの企画なんだから、下手な人間ドラマよりすごい絵見せてくれと。キムタクと黒木メイサの出番を削って(以下自粛)

その点復活篇では、銀河中心の超巨大ブラックホールが冒頭出てきたり、スイングバイを使って加速しワープなどのシーンもあり、宇宙ロマンを感じてちょっとわくわくしました。

そこの差が印象の違いの原因だなと思ったのでした。

宇宙ロマンといえば。

ジャンプで「ST&RS スターズ」という、ファーストコンタクトのために宇宙飛行士を目指す漫画が始まっていて、楽しみに読んでるんですけど。

マガジンでも宇宙飛行士を目指す「STAR CHILDREN」という漫画が。

なんだろう。はやぶさとかのおかげで、宇宙はありになったんだろうか。わくわく。

ところが肝心のはやぶさ2の予算が危ないという噂を聞きました。おおう……。

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2011/11/29

先週の雑感記 コピーのコピーのコピー

コミティア用のネームは何人かにチェックを受けて、GOサイン。

あとはシナリオもう一本書いて、ケッタ・ゴール!のネームを進め。

何かお金にならないことばかりしているな(笑)。

そんな週には、考えさせられるこんな話題。

「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース http://www.j-cast.com/2011/11/221139… 別に今だけの話じゃなくて、商売するっていうことはそういうものなんだと思う。

以前僕が生まれたころの少年サンデーを古本屋で見つけたのだけれど、川崎のぼる先生が「何人も」いた。手塚先生のどろろが浮いてた。時流に乗った方がハードルが低く、でもそこ止まりだと長くは持たないということ。

作家性を感じさせるところまで行かないと、実は商品としても魅力的ではないということでもある。難しいよね。

どちらの言い分も分かるなあと。

作り手の側からすると、同じようなものを作ってると、チャレンジしないのかという気分になるんですよね。チャレンジしないと新しい地平は来ないぞと。

でも、流行があるのは、それが好きな人がたくさんいるからで、そこを違うと言われればいやな気分になるお客さんがいるのも当然。

作る方も生活があるわけで、チャレンジ、チャレンジと、堅実さ無視してたら干上がっちゃう。

けれど堅く行き過ぎると、バリエーションがなくなって、品揃えの悪いスーパーみたいな状態になって、逆にお客さん減るかもしれない。この場合の品揃えの悪さは、牛肉と豚肉だったら豚の方が売れるから、牛は仕入れないようにしようというレベルだから。

現状は、同じのばかりという不満を言う人もいるわけだから、そろそろバランス考えて、チャレンジしなければいけない時期かもしれない。

ただ、最近はネットに好きなようにみんなが感想書きこめる分、チャレンジしてずっこけてしまった作品には風当たりが強く、手堅くそつなくこなした方が無風で、それが作り手の心理的なハードルになっている可能性もある。

……というようにですね、この問題は考え始めると右に左に話が振れてって、なかなか結論が出ないのです。

そんな時に、買いそびれていたこちらを買って読みました。

愛…しりそめし頃に… 9 10 藤子不二雄A

テラさんがそろそろやばいことに!

ご存じない方に説明しますと、この漫画は藤子不二雄A先生の自伝的漫画、「まんが道」の続編に当たる作品です。

トキワ荘の兄貴分だったテラさん、寺田ヒロオ先生は、人気漫画を描いていたのに漫画の変遷を嘆いて筆を折ってしまうのですが、その展開になってきた巻。この間雑誌で見たら、テラさん辞める回だった。

ちょうどここでも、商業主義と作家性の話になってるんですよねえ。

テラさん「おたくたちもわかっていると思うけど、近頃の少年誌の漫画は…見るにたえない作品が多い!」

「西部劇、探偵もの、未来もの、時代劇、ほとんどの漫画の主人公が銃を撃ち、刀を振り回している!」

「読者である子供たちをひきつけるために、ハデなアクションシーンを描くことはわかるが、終始アクションで終わっている! これが子供たちに夢を与える漫画といえるだろうか!?」

(場面変わって)

満賀「いや~、驚いたねえ。テラさんがあんなマジで漫画批判をするなんて!」

才野「確かにテラさんのいう通り、今の少年漫画はドンパチが多いからなあ」

赤塚「しかし、テラさんのいう良い漫画が子供たちにとって面白い漫画となるかどうか?」

石森「そうなんだ! テラさんのいうことは正しいけど、理想論すぎるよ」「いくら良い漫画描いても、人気がなかったら切られてしまうからなあ」

才野「うん」

満賀「難しいところだよなあ。テラさんのいう子供にとってためになる漫画と、読者にとって面白い漫画を両立させることは…」「読者の興味を引くためには、どうしてもはでなシーンが必要になるよね!」

才野「絵としても動きのない地味な漫画は、その陰に隠れてしまう」「ぼくなんかはでなアクションものを描けないから、つらいとこだよ」

赤塚「いや~、才野氏はその点すごくいい線をいってるよ」

石森「ああ、才野氏はいいよ!」

才野「いや~、ぼくは主な舞台が学習誌なので、まだ好きなものを描かせてもらえるからいいんだけど…」

石森「そうか! 少年誌だったらなかなかそうはいかないよなあ」

『その夜、四人の漫画論はどうどう巡りで結論が出なかった…』『話せば話すほど、子供たちにためになる漫画と、人気の出る漫画とを両立させることはとても難しい…ということを思いしらされるばかりだった!』

9巻p64~p68

ちなみに満賀がA先生で、才野がF先生。漫画内では別名になっています。石ノ森先生は改名前。

テラさんは、「漫画少年」という雑誌の創刊の言葉、「漫画は子供の心を明るくする。漫画は子供の心を楽しくする。だから子供はなにより漫画が好きだ! 『漫画少年』はそんな子供の心を明るく楽しくする本である!!」に心打たれ、漫画を描いているので、「今」の漫画が許せないのです。

テラさんの許せなかったその「今」の後の漫画で僕は育ったので、さすがに行き過ぎかなーと思うわけですが。

だって売れるんだからしょうがない、という構造が、もう50年前から。すごい既視感。

ただ、アクション描けないからつらいと言っている才野氏(F先生)が、このあとそういうアクションなしでものすごい大ヒットを飛ばしまくるわけで、独自の個性を確立して「売れるからしょうがない」というレベルを飛び出していく点は示唆に富むなあと。

トキワ荘の先生たちも、最初は手塚漫画のコピーの部分があって、絵柄も可愛い絵なんですが、どんどん個性を確立していって、まったく別物になるんですよね。

さらにこの巻にはさいとう・たかを先生が出てきて、「手塚先生のあとを追っていったのでは先生を超えることができん!」と言ってたり。

そう考えると、僕の意見としては、やっぱり手堅さはほどほどにして、最終的には個性を出してかないといけないんじゃないかなーと思うわけですよ。

さてそんな話を踏まえて。

自分を省みますと。

個性を出すとして、絵柄を考えたら、可愛くて楽しい話。ただ、自分がいつも考えてることを反映させるから、濃い科学ネタで、ちょいブラックな味付けに。

そんなふうに考えた漫画の、ネームチェックをみんなに頼んだのですが。

変な漫画なので、ナベ先生が、「これに何言えっていうの?」と苦笑いしてた。

何かどんどん自由に開放された気分になっています。

開放されてて、手堅さほどほどどころか、さっぱりないです。

まあ、この漫画はこの調子で。どこまで行けるか、行った先の風景を見てみたい。

ただ、お話を作ることは仕事にしたいので。

そっちには堅実さも必要だよねと、次はそちらの作業開始。

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2011/11/20

今週の雑感記 守り人のすべてと金融危機

カットの仕事は仕上げ終わって提出して、特に問題なく無事受け取ってもらえたようで一安心。

本日はまず、この間の感想で触れた、「「守り人」のすべて」を読んで考えたことから。

守り人のすべて。

本編を読み、外伝も読み、でもまだ短編載ってる本があるよと教えてもらって、手に取った本。

お目当ての短編をまず読んで、さて、他の記事も読んでみるかとめくってみると、けっこう面白くて、いろいろ考えさせられたのです。

その中から、まず上橋先生の一文から。

この物語の草稿を担当の編集者さんに見せたとき、「あのね、児童文学って、子供が主人公に心を乗せていける物語なのよ。子供のお母さんみたいな年代の女を主人公にして、どーする!」と怒られましたが、私にとっては、主人公のバルサは、どうしても三十歳以上でなくては、ならなかったのです。

p8より

「怒られた」が冗談めかして書いてあるのか、逆にがっちり反対されたのを柔らかく書いてるのか、そこは分かんないのですが。

どこでもある話なんだなーと。これ、落とし穴があると思うんですよね。

児童文学が子供主人公の方がいいのは確かだと思います。児童漫画もそう。少年漫画は少年が主人公の方がいいし、青年漫画は大人が主人公の方がいい。

読者と立場が近い方が、想像させたり共感させたりするのが楽だからです。

年齢だけじゃなくて舞台設定もそうだったりします。離れれば離れるほど難しくなり、上手く伝えられないリスクが高まる。

だからそのリスクを念頭に置くのはいいとして。

ただ「不利」と「してはいけない」は違うと思うんですよ。

「こういうものだから、こうしちゃいけない」だと、チャレンジがなくなって、どんどん狭くなっていっちゃう。

こだわってないところなら別にリスクをとる必要はないけど、それを書く意義を感じているのなら、あえてリスクをとる気概が、作品にエネルギーを注入するのではないでしょうか。

上橋先生はリスクを取る胆力と筆力があるから、これだけのものを書けてるんだなあと思いました。

自分の場合は筆力が問題。

さてこの本の記事の中で一番興味深かったのは、英語版の翻訳をした平野キャシーさんと上橋先生の講演録でした。

その中に、アメリカでもかーと思った一文が。

上橋 『精霊の守り人』の最初のページに、主人公のバルサが三十歳だと書いてあります。日本では、私の本の読者層は幅広いので、さして問題にならないのですけど、翻訳にあたってキャシーさんから「アメリカの編集者は、主人公の年齢が二十代以上になるとヤングアダルトでなくなるので困るといってきますよ」といわれてびっくり。アメリカで新しい児童文学が出るときは、強力な推薦者たちがあらかじめテスト版を読み、その人たちが推薦してくれることが大切なのだそうです。ところが、その人たちが最初に主人公の年齢で引っかかると続きを読まないのでストーリーの評価をしてくれないというわけなんです。

p98

「○○でなければならない」式の障害がここにも。

アメリカの方が大変そうだなと思ったのが、推薦者の部分。児童文学だけなのか、他のジャンルもそうなのか分からないけど、多分この人たちは、専従じゃないと思われ。

それでご飯食べてるわけじゃないから、「読まない理由」を探しているんですよね。メンドクサイから。

ちなみにこれは僕が今いきなり思いついたことじゃなくて、以前向こうの編集者が書いた小説の書き方の本を読んだ時に書いてあったのです。

投稿してくる新人の小説なんてメンドクサイから、読まない理由を探しながら読んでる。一つでも見つけたら、喜んで読むのをやめる。だから原稿に傷があってはいけないと、細かい作法について逐一指南してありました。

これ目的の主従が逆転してると思うのです。面白い作品を発見するのが目的で、すると全体を読んで面白いかが一番だから、細かいことはそれに影響しているかどうかで、直したり直さなかったりすればいいはずで。

まあ確かに、漫画の持ち込みは短編だから目の前ですぐ読める長さだけど、小説一巻分は何時間もかかるので大変だというのはありますが。

こういう姿勢だと、当然「荒削りな才能」は取りこぼすわけで、それをキンドルの個人出版に拾われているんだと思います。

平野 アメリカでは、すでに充分、よい児童文学はあるので、外国語、とくに、実際に編集者などが読んで判断することが難しい日本語などの作品をわざわざ翻訳・出版する必要はない、と思われているのです。

p95

文化って優劣つけるものじゃないけど、でも経済力の高いところから低いところへ流れていく傾向が。アメリカ→日本→アジアみたいな。

でも逆に日本はチャンスあるんじゃないかと思うのです。日本はこれとはまた別に、アジアの端っこに昔から位置しているため、外のものを取り込んで自分のものにしてしまう文化があって。

つまりアメリカの作家はアメリカ人とだけ競争しているけど、日本の作家は外国のベストセラーとも戦ってるわけで、その分鍛えられている。

注文待ちの姿勢じゃなくて、どんどんこっちから翻訳してもいいんじゃないでしょうか。体力的に大変なら、何社か集まってでも。

韓流のアグレッシブな姿勢は見習うべきだと思います。

上橋 アメリカでは児童文学の枠が日本よりきっちりしているようで、学校関係者がこの本を図書館に置くか、置かないか、とネットで評価していたりするのもおもしろかったですね。「この本には少し暴力描写がある。少しラブ・アフェアー(love affair)が入っている」などとあり、そんなふうにチェック項目があるような書き方をしているのが、ある意味意外であり、興味深かったです。

平野 そうですねぇ。そういうチェックはかなり意識的になされてますよね。バルサの「くそっ」という言葉を、できるだけ悪くない言葉を選んだつもりで「ダム(damn)」と訳したんですが、編集者からは、「ダム(damn)という言葉を入れると、アメリカでは学校で置かれない可能性があるので、気をつけるように」といわれたりしました。でもその言葉はかなり後に出てきたので、実は残っています。(会場 笑)

p108

アメリカは、本やテレビでなるべく子供たちが有害情報に接しないようにと、けっこう表現規制を入れているのに、暴力的な犯罪があとを絶たず。

そういうのが氾濫していると非難される日本が、近年は少ないという。

社会学の研究でもそういうのがあって、要するに表現規制するよりやんなきゃいけないことがあるんだということですね。

だから都の条例に反対したのです。

ちなみに、でもTVを見てると犯罪多いじゃないかと思った人は、マスコミにコントロールされています。事件がニュースにしやすいから取り上げているだけで、数は減ってるのです。警察利権の温床にもなっている、由々しき問題です。

でも、先の社会学の話で言うと、犯罪の大きな原因は貧困なので、格差が開いて貧困層が増えていくこれからの世の中では、ホントに増加してくかも。そっちの方がまずいと思うんですよ。

格差はグローバリズムの必然の結果。でも鎖国は全員負け組になる悪手。どうなるんでしょうかねえ。

と、どんどん話がそれていったところで、次の話題につなげます。そんな世界経済の話から、でもやっぱり創作につながる話。

金融危機。

クローズアップ現代。世界金融危機は防げるか。イタリアまで来てるんだから、日本だって明日は我が身。

こういうニュースを熱心に追っているのだから、漫画に生かせばいいのにと周りの人にずっと言われているのだけれど、絵柄とのミスマッチがあってイメージつかめずにいた。最近ちょっと見えてきたところ。11/11/14

日本の国債は国内でまかなえているから大丈夫と言われているけれど、団塊世代が定年退職したら預貯金は減っていくわけで、いつか外資のお世話になるはず。

中国はバブルの香りがするうえに、地方の統計は中央にいい顔するために捏造されていて実態が分からないので、やばいような気がする。

そんなことを書いてる記事を追っていると、やばそうな年として2013年がちょくちょく出てくるのが怖いなあと思っているのです。

こんな調子で仕事場で解説係なので、漫画に生かせばいいのにと言われているわけですが。

売り物になるレベルとなると難しいですよね。

難しめのニュースを追ってても、勉強したわけじゃなくてニュースを追ってるだけの耳学問だし。ちゃんと詳しい人がごまんといるわけで。

身近にしゃべってる分にはいいけども世間に出すほどだろうか、絵柄も合わないし滑ったものになるんじゃないかなと、二の足踏んでいたのです。

最近は作家さんが自らツイッターとかで情報発信しているので、普段何見て何考えているかも分かるようになって。そういうのを見ていると、なんか自分程度の知識では、売るには弱いような気がちょくちょくします。

SFも最先端は無理だと思う。ついていってないし。

しかし、ストレートなうんちくものは半端な知識だとかっこ悪いですが、一つ一つが足りないのなら、いろんなものと全部掛けて相乗効果を狙う、という手があり。

現在はミスマッチなはずの絵柄とネタを、上手くかみ合わせて楽しい漫画にしてしまうポイントを探索中です。

少しずつ手ごたえ。当るかどうかはともかく(笑)。

ということで、カットの仕事を終わらせた後、コミティア用の次のネームとその次のシナリオ作った今週なのでした。

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2011/11/14

先週の雑感記 宇宙戦艦ヤマト

カットの仕事中です。

ちっちゃいカットって、思いのほか大変。仕上げあとちょっと。

さて今日の話題は、宇宙戦艦ヤマトのリメイクのニュースを知って考えたこと。来年4月、劇場版アニメが公開されるようです。

ヤマトがまたやると聞いて考えた。大当たりした物語は、時代背景を取り込んだ要素を持ってる。ヤマトは明らかに、米ソ冷戦構造を取り込んでいる。実態のよく分からない帝国に、ばかすか爆弾を落とされて全滅するかもしれない恐怖。米ソ全面核戦争の構図。

フィクションの設定に、ちょびっと現実を連想させる要素があると、説得力が生まれる。第三次世界大戦設定の物語は当時けっこうあったけど、その中でもヤマトはそれを見事に表現していて、それが「宇宙戦艦かっこいいー!」以上の広がりを生んだんだと思う。

まず遊星爆弾。いつ飛んでくるか分からない核ミサイルの恐怖を表している。小惑星を落として文明を破壊するのはありとして、核爆発じゃないので、あんな放射能汚染はホントはないはずだ。なくても文明は破壊できるし。でも地下都市までじわじわ汚染されてくのが、とても怖かったのだ。

「地球滅亡の日まであと○○日」は、地球終末時計だ。全面核戦争が起きて人類が滅亡する危険性を時計になぞらえて表した。ちなみにヤマトが作られた1974年は23時51分。一度巻き戻ったんだけど核拡散が起きてちょっと進んだころ。

僕らは全面核戦争の恐怖を刷り込まれ、大気圏内核実験の放射性物質を浴びて育ったので、放射能除去装置をもらいにイスカンダルへ行くヤマトは、現実のヒーローだったのだ。あの話、ガミラスやっつけるの結果論なんだよね。たまたまイスカンダルのとなりにあったの。

もしあの話が、放射能関係なくて、昔の戦艦掘り起こして単艦ガミラスをやっつけに行く、伊四〇一の焼き直しみたいな話だったら、軍事オタクでSF者の人にしか受けなかったかもしれない。身近なリアリティないから、他の人には取っ掛かりがない。

銀河鉄道999は行過ぎた文明への批判だし、松本零士先生の二大ヒットは、SFのかっこよさと現実的なテーマを上手く結び付けてる。大勢の人を引き付けるためには大切なこと。かっこよさがコアなファンをまず呼んで、現実に通じるリアリティがその騒ぎに興味を持って覗きに来た他の人を引き止める。

なので僕は、ただ焼き直せば昔のファンが見てくれるだろうみたいな気骨のない作品は嫌いなのです。スタートレックみたいに、そこを取っ掛かりに新しいテーマで面白く作ってくれると好き。さあ今回はどうなるか。放射能は現代的なテーマに戻ったからなあ。11/11/10

補足解説。

世界終末時計は、「滅亡まであと何分」という形で、核戦争勃発の危険度を表していました。午前零時が滅亡の瞬間だったのです。最悪だったのが1953年の「滅亡まであと2分」。次が1984年の「あと3分」。

1989年からは核戦争の危険だけではなく、気候変動などの要素も評価するようになったのだそうで。逆に言えば、そのころにはペレストロイカが起きて米ソ間の緊張は和らいでいて、「人類滅亡といえば核戦争」じゃなくなったのです。

伊四〇一は、第二次大戦時の日本の潜水艦。翼を折りたたんだ攻撃機を三機積めました。アメリカ本土に攻撃を仕掛けるべく出航、途中で終戦。

今考えれば、攻撃機三機ではどうにもならないと思うのですが、潜水空母が日本にあったと知った当時小学生の僕は、かなりときめきました。「軍事オタクでSF者」は、僕のことです(笑)。

さてそしてテーマの話。

別に大上段に構えたテーマがいるという話ではないのです。それよりも力点は「取っ掛かり」の方。フィクションだけどなんかホントにありそうとか、フィクションだけど何か思い当たるなーとか、作り話以上だと感じてもらえる部分。

大上段ということで言うとむしろ、ヤマトは「愛がどうたら」という押しが強くなった辺りから、あまり面白くなくなったという感想。自己陶酔がひどくなって、気配りがなくなった。

最近僕が見た中で、うまい取っ掛かりを作ったなーと思ったのは、例えば「図書館戦争」です。

有川先生は初期作品から、けっこうミリタリーなネタを使っています。でも、軍事ネタ×SFネタだと、やっぱり好きじゃない人は突き放してしまう。それが一般書として大当たりした図書館戦争では。

検閲とか自主規制とか、今でも起きていることを設定に絡めた。だから、ああ、ありそうだなーと感じながら読める。子供に良書をと騒ぐPTAと国家権力なんて、この間あったしね。

さらに、「私の王子様」みたいな、もっと身近に感じられる話も、並行して走っている。

大勢の人に見てもらうには、そういう取っ掛かりが大切だよなと思うのです。

あと最初のヤマトのやってたあの時代は宇宙探査が盛んだったので、宇宙自体も取っ掛かりになれたんですよね。

僕はアポロの時は赤ちゃんだったので記憶ないですが、バイキング1号の送ってきた火星の赤い空の写真が新聞の一面に載ったりしてて、すごいわくわくしてたのです。パイオニアとかボイジャーとか、初めて見る映像がどんどん来た。SFにはいい時代だった。

でも考えてみたら宇宙も、はやぶさだったり、国際宇宙ステーションだったり、一時期よりはぐっと身近なものになってきてるので。

上手く描けばまた取っ掛かりになるのかもしれないと、SF者としては期待したいですね。また宇宙SFのブームが来たらいいのになー。

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2011/11/07

先週の雑感記 アマゾンに激怒と未来の話

カットの仕事をしてました。チェック待ちでひと段落。

本日の話題は長いですよー。書くのに半日かかったもん(笑)。

まず、この記事が発端。

アマゾンに激怒。

「こんなの論外だ!」アマゾンの契約書に激怒する出版社員 国内130社に電子書籍化を迫る - BLOGOS編集部 - BLOGOS(ブロゴス) http://news.livedoor.com/article/detail… 著者→出版社→アマゾンのルートはないかもしれないね。

アマゾンも油断してるなーと思うのは、ネット上では企業の規模と影響力はそんなに関係ないという点。アマゾンのレコメンドはそんなに当てにはならないし、もし著者の営業努力で、自分のブログとかから読者を誘導しなきゃいけないなら、印税率の低いルートを通す必要性はない。

今はキンドルとかiBooksとか、専用装置と販売サイトが一つになった囲い込み戦略だけど、著者と読者のエンゲージという点では、そんなに有効ではないと思う。埋もれるし。販促に力を入れてくれるところがオープン戦略で逆転できる目は十分残っていると思う。

とにかく僕の興味は小さくても回るシステムなので。ぼったくりのプレーヤーはいらない。11/11/1

こんなことをつぶやいたら、ここで紹介した記事を読んだ友達から、アマゾンが55%、出版社が45%というのは、ここで怒ってるほどひどいことなのか、という質問がありました。

電子書籍に関して、日本の出版社はずっと腰が重かったので、また自分たちの都合で怒ってるのではと思ったようです。実は見出しを見たときの僕の感想もそうでした。

が。

読み終わったあと、僕が思ったのはこうです。

「ROSATはベソスの頭の上に落ちりゃよかったんだ」

解説。ROSATはこの間落下したドイツの人工衛星。ベンガル湾に落ちた模様。ベソスは、アマゾンの創始者で会長さん。

要するに大激怒。

なぜかと言いますと。

従来の出版で、取り次ぎ、書店など流通にかかるコストは30%ぐらいと言われています。なので、電子書籍個人出版が出来るようなサイトでは、手数料30%というところが多いようです。そのまんま持ってきたわけですね。

そして、部数で変わると思うんですが、印刷が20%ぐらいみたい。

アマゾンの55%というのは、これを根拠にしていると思われます。要するに出版社の取り分はだいたい同じにしてやるから、電子書籍になって浮く分は全部俺によこせと。

で、値段は下げろと来るから、取り分の割合は同じでもお金は減っちゃうわけですよ。

ただ、電子書籍だと返本がなくなって、廃棄分がなくなる。戻ってきた本のうち再出荷される物もあるだろうから、廃棄ロスがどれくらいなのか正確な数字は知らないんだけど、それによってはお得になるのかもしれない。

でも、従来の本も全部電子書籍にする場合。これはけっこう手間です。だいたい、既刊がそんなに売れるわけないから、ちょっと昔の本でデジタルデータがない場合、足が出ちゃうかも。

それに対してアマゾンは左うちわです。

そもそも、印刷、取り次ぎ、書店と本が流れる時には、そこでみんな働いているわけです。

印刷所では紙を仕入れてインクも買ってきて、機械に人が張り付いて、出来た本をあっちに持ってったりこっちに持ってったり。取次ぎも、トラックに燃料入れて、倉庫に持ってきたりそこから本屋に運んだり。本屋さんでは店員さんが、あっちの棚に並べ、こっちの棚に並べ。

それに比べてアマゾンは、サーバーちゃんと動いてるかなーと、見守ってるだけじゃないのか。

印刷分寄こせと言ってるけど、電子書籍の形にするのは自分じゃない。

熱心な書店員さんはポップを作ってくれたりするけど、アマゾンのレビューはお客が書き込んでるし、著者ページは著者が自分で書いてたりする。

だいたい流通30%だって、紙本のトラック動かして人手をかけてに比べたら、電子書籍はぼろい商売だなと思うのに、55%だなんて、絶対そんなに働くわけない。

そしてですよ。

出版社の取り分変わらなければ、著者印税も多分変わらないんですよ。電子書籍化のコスト減の恩恵受けるのは印刷流通の部分で、その手前は別に大して変わらないから。

印税10%のまま値段下がるから、著者は減益確定だぜ?

しかも、アマゾンって名前のついたサーバー見守る仕事の方が、まいんち朝まで机にかじりついて、肩痛い腰痛いのに耐えながら原稿描くのより、五倍の価値があるってのたまわったんだよ、あいつら。

おまえの書いた本の価値の半分は、アマゾンのサイトで売ってることだ、と言ったわけじゃろ?

9日ごろに地球に32万4600kmまで接近する小惑星は、ちょっと軌道を変えて、シアトルに落ちたらいいんだよ。(解説。アマゾンの本社がある)

とまあ、最後無茶なことを言い出すぐらい、そりゃもう猛烈に腹立ったわけですけど。

その後、これは交渉術なんだから、自分有利な条件を最初に突きつけるのはビジネスとして当然、日本の出版社もタフに交渉せよという意見も見て。まあそういうもんなのかなと思い。

嘆いてみせてるあの記事の出版社の人も、向こうがリークするならこっちもしちゃえという対抗戦術だったらいいなーと、思ったりもし。

火山大噴火マグマ大噴出的な怒りは収まったのですが。

でも、何か釈然としないものが残ったのです。

ということで、次の話題。

企業の未来。

釈然としないもやもやした感じを覚えてるとき、ふと閃いた。

これがウォール街占拠なのではと。

いきなり何言い出してるんだと思われそうなので、説明しますと。

あの、ウォール街で起き世界に広まったデモ活動。始まった当初、報道するメディアはとても困惑してたそうです。

「ウォール街を占拠せよ」という呼びかけに、人がどばーっと集まったのはいいけれど、インタビューしても要領を得ない。

普通のデモ、例えば反原発デモなら「原発を今すぐ止めろ」とか、明確な主張があるわけですが、それがない。

「ウォール街はけしからん」というところでは一致してるんだけど、他がばらばら。集まってから、スローガン決める話し合いしてたそうですからね。

で、見出しがないと記事書けないから、「反格差デモ」というところで落ち着いたみたいですが。

僕は本質はそこじゃないんじゃないかと思います。

「お前、もう、うざい」が正体では。

何かの行為に反対というより、その後ろ、「ビジネスなんだから」という考え方に、もううんざりという話なのではないでしょうか。

別に違法行為はしてないんですよ。ローン売りつけた代理人には詐欺まがいの人がいたみたいだけど、その後の金融危機は、何か犯罪をしたわけじゃない。金融商品に想定されていなかったリスクがあっただけ。

でも、人としてはどうなの? という部分。

違法じゃないけど、自分の失敗に巻き込まれて、家も仕事も失って公園で野宿みたいな人が大勢いる時に、巨額ボーナスもらって喜んでる奴って、人間としてどうなのと。

その前には、自分のさらなる金儲けのために小麦やトウモロコシを高騰させて、お母さんが子供に食べさせるパンも買えないと嘆いていたけど、それは人間としてどうなのと。

これ、隣にいる奴だったら、かなりやな奴ですよね。

「勝手に巻き込むなよ!」と文句も言いたくなりますよ。

で、ここからさらに話が膨らむんですが。

今、中東では反体制デモが起き、西側諸国で反格差デモが起きている。共通項は、ソーシャルメディアを通して活動が広がったこと。

今グローバル化で物と資本が国境を越えて動き、世界が狭くなっていますが。

ソーシャルメディアによって、人と人とが気持ちを共有しやすくなり、物理的距離が関係なくなっている。そういう意味でも世界は狭くなった。

そうなった時、「お前は良き隣人か」ということが、企業に問われてくるんじゃないでしょうか。

企業にも人格あると思うんですよ。企業体質ということなんだけど、特にソーシャルメディア上では、一人格に見えてくる。一アカウント、一人格。

そういう時、昔なら情報の流路が少ないから、マスメディアに広告どばーっと流していいイメージに塗りつぶすことができたけど、今は情報量が増えてるから、ぼろが出る。

逆にそんなマスメディアがなかったさらに昔、口コミだけが頼りだった昔に、条件としては近くなってくんじゃないか。昔の近江商人は、三方よしといって、「売り手よし、買い手よし、世間よし」ということを気にしたそうな。

「自分だけ儲けられればいい。騙して売ってもばれなきゃいい。世間様に迷惑かけてもいい」だと、評判悪くなって、結局、商いが続かなくなってしまうからです。

心理的な距離が近くなって、まるで一つの街のようになり、そういう世界になっていくような気がしてるのです。

産業革命もその影響で世の中の隅々まで変わるのに何十年かかかったから、多分、ここ何十年かかけて。

そういう文脈で、ウォール街占拠も起きているのでは。

と、ずいぶん話を膨らましましたが、その文脈で、話をアマゾンの突きつけた条件に戻すと。

まあ最終的にはいろいろな交渉によって、八方丸く収まるような条件で落ち着くのかもしれないけど。

相手が間抜けで気付かなかったり交渉で優位に立てたりすれば、相手が損して泣いても気にしないんだよね、と。

そういうのが自分の身近なところで起きて、巻き込まれそうになってることに、もやもや感があるのでした。

だいたいこれ、著者ほったらかしだもんね(^^;;)

というわけで著者にとっての電子書籍の未来についても考えます。

そう言えば、著作権も出版社が買い取れという一文がありましたが、あれどうなんだろうなー。

欧米ではそれが一般的で、日本は版権しか取ってないからプロモーションもきちっとやらない、という意見も見ましたが。でもそれで得するの、一部の売れっ子だけじゃないかな。まさに1%と99%な感じの。下っ端にはどうせ金かけないでしょ。

さらにスーパーマンみたいな例もあるしねえ。著作権取られて会社追いだされたから、大ヒットしても一文も入らずに、貧乏極めたそうだし。

思うにですね。

ソーシャルメディアが広まってくと、ほとんどの作家って、そこでの自分の営業努力で本売るようになってくんじゃないかと思うんですよね。自分のブログとか、ツイッターとか、フェイスブックとか。そういうとこから人に広まっていく。

リアル書店に比べて、ネット書店って一覧性が悪いし、本屋の平積みよりも押しが弱くなると思うんですよ。本と出会う力が弱い。だから売れてますって表示される一部の作品との差が開いて、ホントに売れっ子の1%とその他の99%になると思う。

でさらに言うと、IT企業って入れ替わり激しいじゃないですか。

参入障壁が低いからですよね。最初にあんまりお金がかからないから、フェイスブックのザッカーバーグ氏のように、アイディアとプログラミングの腕があれば、大学生でも立ち上げられる。

アマゾンに対抗して紙本の流通システムを作るには、まずお金がいるから大変だけど、アマゾンに対抗して電子書籍のシステムを作るのはそれに比べたらずっと簡単。アイディアと腕次第でもっといいサービスが出てくる可能性がある。ここはまだ終着点じゃない。

そう考えると著作権を出版社に渡しちゃうのはどうかな。

多分、アマゾンとかアップルとかが、電子書籍ですよ、未来が来ますよ、という感じでどーんと推し進めてくれないと普及しないと思うので、最初はそうだとして。

でもなんかの時のため、身軽に移れるようにしとくのは大切なような気がします。

パブーなんか、今登録されている本が1万8000ぐらいだけど、一桁増えて10万超えて、面白い本にどんどん出会えるようになったら、いい勝負になるかもしれない。ソーシャルグラフを作ろうとしてるし。

iPadもキンドルの新機種KindleFireもネットにつながるから、パブーもそこで手軽にすぐ読める。出版社ももう自前で何とかしないなら、こっちに出したらいいのに。

ということで、そろそろこの間の漫画をパブーにアップしようと思うのでした。身近なところに話を戻して、本日はこれでおしまい。

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