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2010/10/11

今週の雑感記 街場のメディア論

Superflyヘビーローテーション中。♪スタンドアップ! モンスター 頂上へー♪10/10/2

この記事を書いている今もかかっております。♪戦いの歌 未知の世界へ タマシイレボリューショーン♪

公式応援ソングはEXILEのVICTORYだったけど、NHKでかかってたから、僕にとって南アW杯と言えばこの曲です。ダイジェスト映像でかかってると、かっこよかったもんなあ。本田や川島の雄叫びにタマシイ震えたよ。

さて、今日のお題。

この間書きましたけど、仕事場への移動の時に、内田樹先生の「街場のメディア論」を読んだんですよ。

テレビ、新聞、出版という、マスメディアの危機について書かれた本。すごい面白かったです。

普段僕も、現在のマスメディアのあり方については、いろいろと考えるところがあるのですが、そこの何かもやもやとしていた部分に、ぴったり当てはまる言葉がばしばしと与えられていく、そんな爽快感がありました。

もともとは電子書籍についての考察が書いてあるというので、それの興味で買ったんですが。

その部分よりも、報道の危機について書かれた部分で、「あれっ、これ漫画に置き換えても当てはまってるんじゃない?」と、考えさせられました。

マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネットよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかわっている人たちの、端的に言えばジャーナリストの力が落ちたことにあるんじゃないかと思っています。

きびしい言い方ですけれど、ジャーナリストの知的な劣化がインターネットの出現によって顕在化してしまった。それが新聞とテレビを中心として組織化されていたマスメディアの構造そのものを瓦解させつつある。そういうことじゃないかと思います。

なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的には決定される。僕はそう思っています。

(太字は本書では傍点付き)

内田先生はこういうスタンスで、報道すべき事をしがらみの中で報道しなくなっている例や、視聴者に迎合して論じるべき点を論じていない例を挙げていきます。素晴らしい切れ味です。

僕もテレビや新聞の報道は、実はそれほど一生懸命見なくてもいいんじゃないかと思ってたんですが、それはどういう部分が原因かという所に、ぱあっと光が当たったような感じです。まさに「世界の成り立ちについての理解が深まった」。

知的な喜びってそういうところですよね。ほんとに爽快でした。

さて、知的な喜びはいいんだけど、そうやってよその事だけ批判して、自分を省みなかったら片手落ちです。理解が深まったなら、自分に生かさないと。

そんな時、ここの部分が漫画にも言えるんじゃないかと、引っかかったのです。

第四講でこういうことが論じられています。メディアが「定型」に則って語っているため、記事を書いているのが生身の人間ではなく「定型的文体」だということになってしまっている。だから自分に当てはめて考えないし、責任を取らないから言葉に重みがない。マニュアル化しているから言説を制御できず暴走する。

そしてこういう文章で締められています。ここが漫画に当てはまると思ったのです。

だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。当然ですね。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の代わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしてもこれだけは言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられる機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聞くに値する言葉だと僕は思います。

逆から言えば、仮に自分が口を噤(つぐ)んでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。言い方を誤っても、論理が破綻しても、言葉づかいが汚くても、どうせ誰かが同じようなことを言ってくれる言葉であれば、そんなことを気にする必要はない。(中略)

同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間(こうかん)伝えられているように、インターネットに取って代わられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった。そういうことではないかと思うのです。

「言葉」を「漫画」に置き換えると、びりびりきますよ。「定型」にはまっちゃった、誰でも描きそうな漫画なんて、忙しいなら別に無理に読まなくてもいいって話ですよ。ぶるぶる。

自分も知らず知らずのうちに「定型」がすりこまれていて、「こういう漫画ならこんなもんでしょ」的な、「どうしても描いておきたい」わけじゃないシーンを描いちゃうことがあるので、気を付けないといけないなあと。

その点、今回仕事場で話題になって盛り上がった「おおきく振りかぶって」は、高校野球が大好きな作者が、高校野球のこういう所が好きなんだっと全力で伝えようとしている、「描くべきこと」を持っている漫画だなあと思います。面白い。何度も読み返した。

内田先生の今月の新刊は、「街場のマンガ論」だそうです。うわあ、より直接的なお題だ。買わないと。

物事は考え方次第だなあと思った。すごい腹の立つトラブルが、前向きに対処すれば、物事を変えるきっかけになる。すごい危機的な状況が、前向きに挑めば、そこから抜け出した時には新しい生き方を生む。10/10/9

一つトラブルが起きて、それに猛烈に腹立ててたんだけど、考えようによっては、ここをいい機会にできるなあと思ったのです。いやむしろ、いい機会にするために起きた?

危機的な状況の方は、僕の回りではなんと言っても出版不況ですが。

そこで「大変だ、どうしよう」と言ってるだけではジリ貧で。

この不況は構造的なもので、一因として、ネットに時間潰し需要を取られたというのがあると思うのです。

そこで、ケータイ漫画の方に活躍の場を求めようとしている人もいます。お客さんが流れた方に行く。それも一手ですね。

僕は時間潰しではない物を描く努力が大切だと思っています。それこそ「どうしても描いておきたいものがある」漫画。少年漫画はこうだとか、今売れてんのはこうだとか、その手の定型に囚われない漫画。

そのためにはまず僕が、なんとなく物事を思っているんじゃなくて、言葉に対して自覚的であるべきだと考えてます。ブログでもツイッターでも、日ごろから心がけていこうと思うのです。

スーパーの前の家は、都内のこの辺の新築がみなそうであるように、手狭な土地にゆとりなく建てられている。その家の駐車場にプランターがずらっと並んできれいな花畑ができていた。この辺車なくても困らない。戸建自家用車という旧来の幸福モデルを捨て、新しい豊かさを得ているような気がした。10/10/10

車を買えない不幸じゃなくて、あえて買わない幸せってあるよね。

あえて一つ捨てることによって、新しい豊かさが得られるというのは、これからの時代を生き抜く視点ではないかと思います。

出版不況も、一つ捨てたらどうにでもなるような気がするんですよね。前向き!

○ 今週の絵

今月はまずネームなんだけど、頭の回転数上げるために手を動かすのは有効。ということでちょっとだけペン入れを。

Spring8_14

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