お客さんを意識する
今月号のブンブンで、新人賞の発表があって。
その総評の中に、気になる一文が。
回を重ねるごとに作品のレベルは上がっていますが、それに伴い内容の複雑さも上昇傾向に。児童コミックという根本に立ち返り、読者がわかりやすい、親しみやすい、そしておもしろいと感じられる作品作りを心がけてもらいたいと思います。
この手の総評は、よく見かけますね。別に児童誌に限ったことではなく。読者を意識して描きなさい、というやつ。
でも、それが難しいんだよねえ……。
作る側からすると、「わかりやすい」と「おもしろい」が、最初は相反するものになってしまうから。
自分もそうでしたが、描き始めの頃はたいていみんな、お客さんの事なんて、さっぱり意識していない。無視、という事じゃなくて、そんな余裕無いから(笑)。
とにかく頭の中の妄想だった物に、はっきりとした形を与えるだけで、精一杯。描いてみると意外に話が繋がってなくて、何とかオチまでたどり着くだけで、息も絶えだえ。これが最初の段階。
で、読み返してみると、なんだこりゃ、という事になってたりして、これを何とか、自分で面白いと思える状態にするのが次のステップ。大体この辺で、みんな試しに投稿してみたりするわけで。
多分そういうのが、何本か来てた、という事なんでしょうね。
で、「読者がいるんだから、それを意識して」と言われると、まあ理屈としては、そりゃそうだとすぐに納得できるんですが、ここからが実は大変で。
意識しているつもりでも、自分は書き手で、内容もバックボーンも自分が全部考えているから、自分には全部分かってる。それを取っ払って読者の立場で見直す、というのがなかなか出来ない。
犯人を知ってるミステリーを、そこの部分の記憶をなくして、もう一度読めるか、という事(笑)。
この時に、この間書いた、ネームの原理原則、心理学の応用の側面が必要になってくるのです。
児童誌って難しいなあ、と思うのが、ここの所。このネームの技術が、他のジャンルよりも求められる。
シンプルな話だから、みんな意識していないかもしれないけれど、「簡単に見せる技術」「要点を的確に提示する技術」がないと、伝わらない。
例えば他のジャンルなら。そう、マイナー誌で例えると、読者と作者の年齢も近いし、趣味も同じだったりするから、自分が面白いと思ったものをある程度スムーズに伝えられれば、ちゃんと面白いと思ってもらえる。
少女漫画で学生デビューが多い、というのも、同じ現象ですね。
面白いと信じてる物を一生懸命追求すれば、ちゃんと反応返ってくるわけで、描き手としては、没頭しやすい。
でも児童誌の場合、描き手が同世代という事はまずなくて、かつ、読者の読解力が期待できない。
描き手の立場からすると、面白い物を一番簡単に描く方法は、没頭して突っ走ることなのです。自分が醒めてると、やっぱりそれなりの物になってしまう。なのに、突っ走るとついて来れないかもしれない、というジレンマ。
となると、かなりネ-ムの技術の比重がでかくなる。没頭して、突っ走って、なのになおかつ、読者に気配りして、スムーズに伝えないと駄目。
ここで怖いのが、技術的困難に耐えかねて、「わかりやすく」「児童誌ってのは、こうでしょう?」というような、ネタとか表現とか、丸々よそから持ってきて、繋ぎ合わせたパッチワークのような描き方になることです。
結局そんな安易な解決をしても、最終的にはそういう漫画を本気で描ける、本物の人にパワーで勝てない。
没頭している本気の人が描くと、細かいアイディアの量が全然違う。これは別に熱血漫画だけのことではなくて、かわいい漫画でも何でもそう。
要するに「お客さんを意識する」という事は、真面目にジレンマに取り組んで、「自分が面白いと思ったものを、いかに分かりやすく伝えるか」に頭を捻り続けるしかないんだよね、という結論。
理想をあげると。「ドラえもん」に代表される、藤子・F先生の児童漫画は、実は主題にしろ題材にしろ、結構高度なものを扱っている。それをきっちり噛み砕いて読ませているのが、作家としての腕前。
だから、大人向けに描かれた短編なんかを読むと、ぞっとするのです。物凄い、ネームの切れ味。研ぎ澄まされた逸品。
ああいう腕を、持ちたいですよねえ……。
込められたエネルギー、想い、アイディア、情熱……そういう中身でくじけても駄目。分かりやすさ、気配り……インターフェイスの部分でくじけても駄目。
新人さんに限ったことではなく、自分も結局、その課題と向き合う日々なのです。
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