闘うこと
NOAHの東京ドーム大会に行き、感想を仕事明けに、と書いておきながら失念。
いまさら試合のレビュー書いても時期外れだし、さりとてこのまま放置するのもどうにも落ち着かないし。
と言うわけで、試合に絡めて思ったことなど。「闘う」とは何か、について。
格闘技が巷ではやりだした頃、特に新日本方面で「闘いがない」というのがキーワードになってましたが、ちょっと疑問に思ってた。「闘い」の定義がなされていないような気がして。殺伐とした感じのことじゃないんじゃないの? という疑問。
アドレナリンをドバドバと出して、いっちゃってるテンションで、殺人マシーンと化す事だけが、闘うという事だろうか。闘うという事は、いかに効率的に相手を戦闘不能に追い込むこと、なんだろうか。
その辺、漫画のテーマでも出てきそうな話だから、凄く気になってて。
古来から世界各地で「強い人は偉い!」と賛美する風習があったりします。日本の相撲も神事だったし。でもこれは決して、暴力の賛美じゃないはずです。
本能的に、暴力を目の当たりにすると興奮する、という部分もありますが。社会の中で、強いことに意味があったんだと思うのです。
昔々は隣の集落とのトラブルを腕力で解決するケースが多かったわけで、強い人は、頼れる人だった。そんな事が元にあるんじゃなかろうか。
でも今はそんな社会じゃないし。腕力自慢は問題解決にならないし。素手で強くても武器持った相手に勝てないし。
で、現代社会で賛美される強さ、というのはなんだろうと考えると。人間的な強さではないのかな、と。根性とか信念とか、精神的な強さを見せないと、「闘い」を見せる意義がないんじゃないのかな、と思うわけです。
で、ここでドーム大会に繋ぐ。なんと言っても小橋vs健介戦の、あの壮絶なチョップ合戦。パフォーマンスの域を超えてる。全存在がかかっているような「闘い」だった。
プロレスの技って、意識して他人と差別化して使ってたりするから、その人の象徴、といった意味も持ってる。力自慢の小橋選手と健介選手は、ラリアットとチョップという腕っ節の強さをアピールするような技が、お互いに持ち技で。
あそこで引いたら、自分の存在が負けてしまう。意地でもやめられない。そんな気持ちがビリビリと伝わってくる。
だから最初はお客さんも、チョップ合戦だ、わーい、というお祭り感覚で掛け声かけたりしていたけど、途中からそれどころじゃなくなってた。もう大興奮。
試合の結果は小橋選手の勝ちだったけど、あそこで引かなかったことで、双方が勝者。そんな試合でした。
プロレスの、そういうところが、好きなんだ。
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